伏見城は3度に渡って築城され、最初の城は1592年8月に豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため指月山に建設を始めた。
このとき築かれたものを指月山伏見城と呼ばれる。

後に近隣の木幡山に再築されたものを木幡山伏見城と呼んで区別される。
さらに木幡山伏見城は豊臣期のものと、伏見城の戦いで焼失した跡に徳川家康によって再建された徳川期とに分けられる。

指月山に築かれた伏見城は築城開始から2年後の1594年に秀吉が入城し、更にその2年後の1596年に完成をみるが、
その直後に慶長伏見地震によって倒壊した。このため、指月山から北東の約1kmの木幡山に新たな城が築き直されることになり、
翌1597年に完成した。しかし、秀吉はその2年後の1598年に城内で没した。

関ヶ原の戦いの際には家康の家臣鳥居元忠らが伏見城を守っていたが、石田三成派の西軍に攻められて落城し建物の大半が焼失した。
立てこもっていた徳川家の家臣らが自刃した建物の床板は、供養も兼ねて京都市の養源院、正伝寺などで天井板として再利用されたと
の言い伝えがあり、血天井として現在も生々しい痕を見ることができる。

ただ、徳川家家臣らの自刃した建物が焼失を免れた記録や移築を裏付ける資料はなく、信憑性は定かではない。
焼失した伏見城は1602年ごろ家康によって再建され、1619年に廃城とされた。このとき建物や部材は二条城、淀城、福山城などに
移築された。伏見城の跡には元禄時代ごろまでに桃の木が植えられて桃山と呼ばれるようになり、現
代に至り伏見城は桃山城あるいは伏見桃山城とも呼ばれるようになった。